セクシー田中さん署名の報告(旧・西山聡(agemaki66)の気まぐれブログ)

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英雄、不要な時代の傑作『梅ちゃん先生』

文学や音楽は、時に、現実社会の変化を先取りする。 英雄交響曲は【フランス革命後の世界情勢の中、ベートーヴェンナポレオン・ボナパルトへの共感から、ナポレオンを讃える曲として作曲された。しかし、完成後まもなくナポレオンが皇帝に即位し、その知らせに激怒したベートーヴェンは】(ウィキペディア) ナポレオンへの献辞の書かれた表紙を書き直した(といわれる)時から、音楽や文学では、英雄は要らない、という時代が始まった。


ところが現実の世界では、なかなか、英雄は不用にならなかった。しかし、ジョージ・オーウェルが『動物農場』(Animal Farm)を書き、全体主義スターリン主義を批判、毛沢東中華人民共和国文化大革命などの蛮行を繰り返すうち、私達は、英雄は益よりも害が大きい、と気づくようになった。

現実社会では、英雄がなかなか不用にならなかったから、それを反映して、山崎豊子の小説や、連続テレビ小説からは、なかなか英雄やヒロインが居なくならなかった。連続テレビ小説の場合、私の知る限り、変化が始まるのは『ちりとてちん』(2007/2008)からである。『ちりとてちん』は、英雄やヒロインが不用になった私達のこの時代に、ヒロインらしくないヒロイン、という画期的な人物像を生み出した。

連続テレビ小説梅ちゃん先生』が傑作である理由の一つは、『ちりとてちん』が生み出した<ヒロインらしくないヒロイン>を、より進め、深化させた点にあると思う。最終回での回想に明らかなように、梅ちゃんは徹底して3枚目で、その3枚目ぶりは第一回から最終回まで変わることがない。

梅ちゃんの人物造詣は、連続テレビ小説が得意としてきた、ヒロインらしいヒロインではなく、むしろ四コマ漫画テレビアニメーションの『サザエさん』に近い。しかし、『梅ちゃん先生』は連続テレビ小説なので、『サザエさん』と同様にはつくれない。

そこで作者らは、ドジでそそっかしく、徹底的に3枚目な梅ちゃんが、周りの助けを借りながら、自らやコミュニティの困難を乗り切る、という画期的な手法を編み出した。

私達の現実社会も、フランクリン・ルーズベルトキング牧師を失って以後、英雄は不用になった。私達は残念ながら、英雄は益より害の方が大きいと知ってしまった。『梅ちゃん先生』は、私達のこの、英雄不用の時代に、たいへんふさわしい連続テレビ小説の傑作だと思う。