セクシー田中さん署名の報告(旧・西山聡(agemaki66)の気まぐれブログ)

休んでいたブログを「セクシー田中さん署名」https://www.change.org/SexyTANAKAsan の報告用に活用します

暫定版(~2/8)

 

(署名に基づく要請などは、関係先各位に5000筆ごとに提出予定で、提出の文章(カチッとした形式的なもの(提出先によって異なる))は、また、ご報告いたします。以下は、署名を集める、この取り組みの趣意書です。) 

セクシー田中さん、真相究明と再発防止を求める署名、趣意書

テレビドラマ化の真相究明を

私たちは、日本テレビ放送網が制作・放映したテレビドラマ『セクシー田中さん』の製作や放送などの経緯について、さまざまな疑問を持っています。

2024年2月1日現在、報道によれば、原作者・芦原妃名子先生のご遺族は「そっとしておいて欲しい」という意向ですが、日本テレビ放送網小学館から真相究明の姿勢や、再発防止への取り組みは見られません。

しかし『‥‥「 #セクシー田中さん 」実写ドラマ化を巡る問題と、過去に問題になった事例を整理すると、#日本テレビ は原著作者( #芦原妃名子 先生 )の同一性保持権を侵害する違法行為を業として行ったと受け止めるべきです。‥‥』 https://www.asami-keiei.jp/blog/2024/02/01/11146/

日本テレビへの疑問

そもそも、日本テレビ放送網などに、自局でドラマ化した作品の原作者の死を「自分たちのテレビドラマ製作の、さまざまな不手際からおきた不祥事」という認識はあるのでしょうか?

日本テレビは、その公式ホームページで『芦原妃名子さんの訃報に接し、哀悼の意を表するとともに、謹んでお悔やみ申し上げます。日本テレビとして、大変重く受け止めております。ドラマ「セクシー田中さん」は、日本テレビの責任において製作および放送を行ったもので、関係ない個人へのSNS等での誹謗中傷などはやめていただくよう、切にお願いを申し上げます。』などと表明しています。

(セクシー田中さん、サイトでは、最終的「には」許諾を得たことを追記 (「‥‥原作代理人である小学館を通じて原作者である芦原さんのご意見をいただきながら脚本制作作業の話し合いを重ね、最終的に許諾をいただけた脚本を決定原稿とし、放送しております。」))

しかし、芦原妃名子さんが生前、ブログなどでドラマ化に関してさまざまなトラブルを明らかにし(✱)、削除の後に不幸な事態がおきたことに関して、経営者らが記者会見を開く予定もなく、第三者委員会を設けてトラブルを検証する姿勢も見られません。

実写ドラマ化について、最終的には、8話までの脚本に許諾は得られたものの、それまでのやりとりや、9話10話の脚本執筆などで、先生は相当に疲弊され、もし勤労者(労働者)だったら、過労死の労災認定がされる心身状態だったのかもしれません。

事件の経緯

この問題について、アメリカ合衆国NBCなどは

・原作者がドラマ化に同意する前、原作者がドラマ化を許諾していない段階で、俳優たちはベリーダンスのトレーニングを始めた

・ドラマ製作が始まると、日本テレビが、ドラマ化の契約条件にさまざまな違反を繰り返した(✱)

・12月、脚本家がインスタグラムに、原作や原作者への敬意を欠いた愚痴をこぼし、SNSの一部から、原作者はいわれなき批判をうける

・やむを得ず、原作者は反論。その後、不幸な事態へと発展

などと、今、考えられる経緯の全貌に近いと思われる概況を、もれなく伝えています。

テレビは正しく伝えているのか

しかし、日本のテレビの報道やワイドショーには、偏った見方の紹介も目立ち、とくに1話~8話までの脚本担当者がインスタグラムに愚痴をこぼし、SNSの一部で原作者が糾弾されたことなどには触れない、報道やワイドショーなどには異常を感じます。

(日本国内だけの、その偏った報道ぶりは、昭和世代の一部には「神風が吹き、絶対に日本は勝つ」といった、第二次世界大戦末期のマスコミを思い出させる、空恐ろしいものです)

私たちは以下の諸問題について、放送を所管する、衆議院総務委員会、参議院総務委員会、総務省放送倫理・番組向上機構BPO)などによる、日本テレビ放送網小学館、関係者らの事情聴取(参考人招致)などと、真相のくわしい究明、再発防止策の策定などを求めます。

私たちの抱く疑問

  1. 原作者がドラマ化に合意した6月より前、5月から主演・木南晴夏さんがベリーダンスの練習を開始した経緯や理由について(俳優さんに他意はなく、過失であっても、原作者の同意以前にドラマ化を前提に、何らかの準備にあたるのは、著作権の侵害ではないか? ✱1)
  2. 出演予定の俳優たちが、ベリーダンスの稽古をしていることなどを口実に、小学館上層部が、担当編集者や原作者に対して、ドラマ化へ不当な圧力をかけたことは無かったのか?
  3.  8話までの脚本担当者がインスタグラムで、原作や原作者への敬意の感じられない奇妙な発言(現在は「鍵かけ」✱2)をしたことについて、日本テレビ放送網、担当プロデューサー、当該脚本家の、著作物の人格権、さまざまな原作に対する認識
  4. 関連して、日本シナリオ作家協会が、芦原妃名子先生の不幸後に製作、公開し、しかし、削除した番組(その後、謝罪)で、出演者が「最近の原作者はこだわりが強い」「原作どおりにやって欲しいて人がいる」「原作者とは会いたくない」「原作はそのままじゃなくて改変してなんぼ」「世間が我々の対立構造を作ってる」などと明言したことについて、日本テレビ放送網小学館関係者、放送を所管する総務省などの見解
  5. 原作者(芦原妃名子先生)が、生前にブログなどで経緯を明らかにしましたが(現在は削除 ✱)、なぜ小学館が代弁せずに、原作者個人で行なわざるを得なかったのか
  6. 上記、8話までの脚本担当者の愚痴(? インスタグラム)と、原作者・芦原妃名子先生がブログなどで語った経緯が、著しく相違しているのは何故なのか
  7.  8話までの脚本担当者の愚痴(? インスタグラム)について、芦原妃名子先生の不幸を報じる際に、テレビ報道やワイドショーなどで触れないことが多いのは何故か

各位に期待していること

上記の諸問題は放送倫理・番組向上機構BPO)が、日本テレビ放送網小学館などに事情聴取をし、真相究明を行ない、不祥事などの再発防止策を提言すべきかと思います。

しかし、放送倫理・番組向上機構BPO)は、必ずしも理念どおりには機能しないおそれがあり、衆議院総務委員会、参議院総務委員会、総務省などには、日本テレビ放送網の担当役員、プロデューサー、1~8話の脚本担当の参考人招致などを求めます。

また、『セクシー田中さん』ドラマ化のトラブルは、アメリカ合衆国をはじめ、国際的な注目も集めていることから、日本外国特派員協会(FCCJ)におかれましては、日本テレビ関係者の記者会見を開催、上記諸問題について見解を問う機会を設けていただければ幸いです。

あわせて、東京証券市場には、日本テレホールディングス株式会社が、『セクシー田中さん』のドラマ化で、日本テレビ放送網民法(信義誠実の原則(信義則))や著作権法などについて法令違反が無かったのか、必要な調査を要請してください。

私たちの願いは再発防止

私たちは、日本テレビ放送網小学館放送倫理・番組向上機構BPO)などに対して『セクシー田中さん』のドラマ化の真相究明と、いわゆる原作改変などについて、再発防止策策定を求めるものです。

本来なら、原作者の訃報を受け、日本テレビ放送網は、クリスマスケーキの問題で緊急に最高責任者が陳謝した高島屋(さま)などを見ならうべき、でした。しかし、芦原先生の死について、日本テレビの発表した見解や、その報道のあり方は、当事者性の自覚なく、経営者らは『セクシー田中さん』ドラマ化のトラブルなどに、触れる機会はありません。

また、これまでの数々の不正に対し現在、真摯に過去を分析し、再発防止策を探っている、ダイハツ自動車工業や「トヨタ」などに比べ、「芦原妃名子さんの死は『僕らのせいじゃ無い』」と言わんばかりの、日本テレビ放送網は、放送で、高島屋ダイハツトヨタなどを論評する資格はありますか?

王様は裸だ、と言わざるを得ず、王様(日本テレビ放送網、など)には監視や苦言などを、衆議院総務委員会、参議院総務委員会、総務省BPO小学館などに期待し、この署名を集め、国会のMANGA議員連盟など各位に要請します。

マンガやテレビ、テレビドラマの健全な発展を願って

私達の立場はさまざまですが、ここでは、いち読者、いち視聴者として、日本のマンガやテレビドラマ界の健全な発展を願っています。

よろしければ、この電子署名に、ご協力をください。この署名は、日本テレビ放送網などが、真相を検証し再発防止策を策定するまで継続し、一定の賛同(5000筆)が得られるごとに形式を整え、国会MANGA議員連盟総務省、東京証券市場、日本外国特派員協会などに逐次、提出する予定です。どうぞよろしくお願いします。

 

注記

✱1 俳優さん個々人に他意はなくても、ドラマ化について、原作者の同意が得られていない段階で、ドラマ化を前提に何らかの準備にあたることは、著作権の侵害にあたらないのでしょうか? 俳優さん個々には、ドラマ化について、原作者の同意がまだ得られていないことについて、きちんと伝えられたのでしょうか? 

また、原作者の同意が得られていない段階で、ドラマ化を前提に何らかの準備にあたることは、著作権の侵害にあたらない、と、日本テレビ放送網や、放送倫理・番組向上機構BPO)は考えているのでしょうか?

関連 https://www.asami-keiei.jp/blog/2024/02/01/11146/
など

 

✱2

https://twitter.com/Panamabunsyo/status/1752151030186602880

 

芦原妃名子 ブログ
漫画家*芦原妃名子のお仕事日記

ドラマ『セクシー田中さん』について
2024.01.26 Friday14:31

ドラマ「セクシー田中さん」をご視聴いただいた皆様、
ありがとうございました。 

色々と悩んだのですが、今回のドラマ化で、
私が9話、10話の脚本を書かざるを得ないと判断するに至った経緯や事情を、
きちんとお伝えした方が良いのではと思い至りました。
この文章を書くにあたって、私と小学館で改めて時系列にそって事実関係を再確認し、
文章の内容も小学館と確認して書いています。
ただ、私達は、ドラマの放送が終了するまで、脚本家さんと一度もお会いすることは
ありませんでしたし、監督さんや演出の方などドラマの制作スタッフの皆様とも、
ドラマの内容について直接、お話させていただく機会はありませんでした。
ですから、この文章の内容は私達の側で起こった事実ということになります。

「セクシー田中さん」は一見奇抜なタイトルのふざけたラブコメ漫画に見えますが…。
自己肯定感の低さ故生きづらさを抱える人達に、優しく強く寄り添える様な作品に
したいという思いが強くあり、ベリーダンスに纏わる方々の思いにも共鳴しながら、
担当編集と共に大切に描いてきた漫画です。
 
ドラマ化のお話をいただき、当初の数話のプロットや脚本をチェックさせていただき
ながら、最終的に私が10月のドラマ化に同意させて頂いたのは6月上旬でした。
「セクシー田中さん」は連載途中で未完の作品であり、また、漫画の結末を定めて
いない作品であることと、当初の数話のプロットや脚本をチェックさせていただいた
結果として、僭越ではありましたが、ドラマ化にあたって、
・ドラマ化するなら「必ず漫画に忠実に」。
漫画に忠実でない場合はしっかりと加筆修正をさせていただく。
・漫画が完結していない以上、ドラマなりの結末を設定しなければならないドラマ
オリジナルの終盤も、まだまだ未完の漫画のこれからに影響を及ぼさない様「原作者
があらすじからセリフまで」用意する。
原作者が用意したものは原則変更しないでいただきたいので、ドラマオリジナル部分
については、原作者が用意したものを、そのまま脚本化していただける方を想定して
いただく必要や、場合によっては、原作者が脚本を執筆する可能性もある。

これらを条件とさせていただき、小学館から日本テレビさんに伝えていただきました。
また、これらの条件は脚本家さんや監督さんなどドラマの制作スタッフの皆様に対して
大変失礼な条件だということは理解していましたので、
「この条件で本当に良いか」ということを小学館を通じて日本テレビさんに
何度も確認させていただいた後で、スタートしたのが今回のドラマ化です。
 
ところが、毎回、漫画を大きく改編したプロットや脚本が提出されていました。
・漫画で敢えてセオリーを外して描いた展開を、よくある王道の展開に変えられてしまう。
・個性の強い各キャラクター、特に朱里・小西・進吾は原作から大きくかけ離れた
別人のようなキャラクターに変更される。
・「性被害未遂・アフターピル・男性の生きづらさ・小西と進吾の長い対話」等、
私が漫画「セクシー田中さん」という作品の核として大切に描いたシーンは、
大幅にカットや削除され、まともに描かれておらず、その理由を伺っても、
納得のいくお返事はいただけない。
といったところが大きなところですが、他にも細かなところは沢山ありました。

 「枠にハマったキャラクターに変えないでいただきたい。
私が描いた「セクシー田中さん」という作品の個性を消されてしまうなら、
私はドラマ化を今からでもやめたいぐらいだ」と、何度も訴え、
どうして変更していただきたくないのかということも丁寧にご説明し、
粘りに粘って加筆修正し、やっとの思いでほぼ原作通りの1〜7話の脚本の
完成にこぎつけましたが…。

 脚本家さん、監督さんといったドラマ制作スタッフの皆様と、私達を繋ぐ窓口は
プロデューサーの方々のみでしたから、プロデューサーの方々が当初「ドラマ化の条件」として
小学館から日本テレビさんに伝えていただいた内容を、
どのように脚本家さんや監督さん、ドラマ制作スタッフの皆様に伝えていらっしゃったのか、
残念ですが私達には知る術はなく、
当初お伝えした「ドラマ化の条件」はどうなってしまったのだろう?という
疑問を常に抱えた状態での加筆修正の繰り返しとなって、
その頃には私も相当疲弊していました。

そして、私があらすじ、セリフを準備する終盤のドラマオリジナル展開は
8話〜10話となりましたが、ここでも当初の条件は守られず、
私が準備したものを大幅に改変した脚本が8話〜10話まとめて提出されました。
特に9話、10話の改変された脚本はベリーダンスの表現も間違いが多く、
ベリーダンスの監修の方とも連携が取れていないことが手に取るように分かりましたので、

「当初の約束通り、とにかく一度原作者が用意したあらすじ、セリフを
そのまま脚本に落としていただきたい」
「足りない箇所、変更箇所、意見はもちろん伺うので、脚本として改変された形
ではなく、別途相談していただきたい」
といったことを、小学館から日本テレビさんへ申し入れをしていただきましたが、
その後も、大幅な改編がされたプロットや脚本が提出され、
それを小学館サイドが「当初の約束通りに」と日本テレビさんにお戻しするという
作業が数回繰り返されたと聞いています。
最終的に、日本テレビのチーフプロデューサーの方から「一度そのまま書くように」
との指示が出たとも伺っていましたが、状況は変わらぬまま約4週間が過ぎてしまいました。

ドラマの制作スケジュールのリミットもどんどん迫っていましたので、
本当はドラマオリジナルとなる8話〜10話全ての脚本を拝見してオリジナル部分全体で、
加筆修正をさせていただきたかったのですが、8話だけ、
何とか改変前の内容に修正させて頂いて、日本テレビさんにお渡しすることになってしまいました。
9話、10話に関する小学館日本テレビさんのやりとりを伺い、
時間的にも限界を感じましたので、小学館を通じて9話、10話については、
当初の条件としてお伝えしていた通り、
「原作者が用意したものをそのまま脚本化していただける方」に交代していただきたい
と、正式に小学館を通じてお願いしました。

結果として、日本テレビさんから8話までの脚本を執筆された方は
9話、10話の脚本には関わらないと伺ったうえで、
9話、10話の脚本は、プロデューサーの方々のご要望を取り入れつつ、私が書かせて
いただき、脚本として成立するよう日本テレビさんと専門家の方とで内容を整えて
いただく、
という解決策となりました。

何とか皆さんにご満足いただける9話、10話の脚本にしたかったのですが…。
素人の私が見よう見まねで書かせて頂いたので、私の力不足が露呈する形となり反省しきりです。
漫画「セクシー田中さん」の原稿の〆切とも重なり、相当短い時間で脚本を
執筆しなければならない状況となり、推敲を重ねられなかったことも悔いてます。
9話、10話の脚本にご不満をもたれた方もいらっしゃるかと思います。
どのような判断がベストだったのか、今も正直正解が分からずにいますが、
改めて、心よりお詫び申し上げます。

最後となりましたが、素敵なドラマ作品にして頂いた、素晴らしいキャストの
皆さんや、ドラマの制作スタッフの皆様と、「セクシー田中さん」の漫画と
ドラマを愛してくださった読者と視聴者の皆様に深く感謝いたします。

2024.1.26

芦原妃名子

窓を開けてみようよ

窓を
窓を開けてみようよ
暖冬だったから、もう、暖かいよ
モンステラは軒下で冬をこせたよ
だから
窓を開けてみようよ
もし花粉症でなかったら


友だちが花粉症だったなら
スギやヒノキを伐ってみようよ
山に行くまでも、ないのかもしれない
郊外の平凡な平地にも
スギやヒノキは植わっているよ


スギやヒノキを伐ったなら
クヌギケヤキ、マツでもいいかな
別の木を植え、はぐくんでみようよ


窓を
窓を開けてみようよ
そよ風が心地よいよ
菜の花はすくすく伸びているよ
春風が麦をはぐくむよ
そろそろ早苗の準備だよ


暖かい冬だったから
沈丁花はもう、香っていないよ
梅ですらもう、若葉の品種があるよ
桜のつぼみは膨らみ始め
ヒヤシンスは香り
フリージアはほころぶ
だから窓を開けてみようよ


原発事故は終わっていないよ
使用済み核燃料はたまっているよ
日本列島には、あまりに核物質が多いよ
だから
IAEAは、膨大な予算を
日本列島の監視に使っているよ
日本人だけ井の中の蛙
だから、日本の窓を、こじあけてみようよ


電車の窓を開けてみた
春の空気は心地よかった
勝手口をあけてみたら
鳩の鳴き声が聞こえてくる
ウグイスの初音を先々週、耳にしたよ
房総ではもう、蛙が合唱、しているのかも
南の島は、もうじき「はまうり」さあ〜
イヤササ ♪
窓を開けてみようよ


あなたがもし、心を閉ざしているのなら
心の窓を開いてみようよ
あなたは自分が思うほど
不幸せではないかもしれない
だから
心の窓をあけてみようよ


春だよ
窓を
窓をあけてみようよ
それで、もし、心が軽くなったなら
ショパンの作品11からロマンツェ、
口すざんでみようよ


春だよ、窓を開けようよ
心の窓も開けてみようよ

フィギュアスケートへの違和感

(うだうだ書きましたが、フィギュアスケート、競技として演技として「超むずかしく」、生演奏にあわせるなんて、とても無理だ、と、後日、知人から指摘を受けました。反省ちう)

 滑ったことは無い。ライブでも観ていない。だから偉そうなことは言えない。でも何だかいつも違和感がある。僕は今宵、僕の違和感の正体にようやく気づいた。生演奏でなく、録音の音楽を使うので、僕には違和感があるのだと思う。

 たとえば東京ドームのコンサートで、アイドル、あるいはアーティストが、カラオケで口パクをしたら、少なくとも(嫌いなメディアではあるけれど)2chでは話題になるだろう。でも、フィギュアスケートで「録音」を使うことに、誰も異議を唱えない。フィギュアスケート、どうして録音なのかな? 

 選手の演技に音楽の方が<あわせ>ないのかな? 生演奏でいいじゃない? お金がかかる? ボランティアじゃダメ、でせうか? そもそも昔、録音がなかった頃、フィギュアスケートって生演奏じゃなかったの???

 フィギュアスケートは、現代では基本、録音の音楽を使うので、選手は<たかが>録音に従属してしまっている。そこには、舞台における俳優やバレリーナ、生演奏における歌手のような、主体性や即興性は無い。

 だから思い切って、フィギュアスケートは、録音はやめて、生演奏にしたらいけないのかな? 3回転とべそうに無かったら、3回転を飛べるように、演奏の方をゆっくりしたらいい。それじゃいけないのかな? 「それじゃスポーツじゃない」と言われるかもしれないけど、ほかのスポーツなら、もっと融通が利きそうな気がします。

 と、浅田真央選手が、ショパン即興曲・第二番の「録音」を使って「演技した」ので、ようやく気づくことができた。

 ショパンは、私が誤解していなければ、ものすごく大胆なことを言っていて、「楽譜で弾けないところがあれば、省略していい」「その場の雰囲気にあわせて、曲は、繰り返して間延びさせたり、あるいは途中でやめてもいい」つまり「楽譜どおりに弾かなくていい」と言っている(だから彼は、名ピアニストなのだ)。

 だから、ショパンの楽譜って、本当は録音で聴いてはいけない。あくまでもライブで楽しむもの、なのだ。ライブなら、ピアニストは本来、「楽譜どおりに弾かなくていい」、臨機応変に、「楽譜で弾けないところがあれば、省略していい」「その場の雰囲気にあわせて、曲は、繰り返して間延びさせたり、あるいは途中でやめてもいい」

 フィギュアスケートは、録音を使うことをやめて、思い切ってピアニストのライブ演奏を基本にしたらいい。そうすれば、音楽の方が選手に合わせることができる。現代のフィギュアスケートは(音楽であるかどうかも疑わしい ※)「録音」に選手が<あわせる>ので、観ていていつも、誰の「演技」でも痛々しい。「録音」に選手が「合わせる」限り、そこには主体性を奪われた<人間の疎外>がある。

※ 録音は聴く者には廉価で便利だけれど。

 と、浅田真央選手が、ショパン即興曲・第二番の「録音」を使って「演技した」ので、ようやく気づくことができた。

 

Twitter、シリア電子軍の攻撃を受ける

 テレビや新聞の広報部だって、かなり困っていただろうに、日本のマスコミニュースの扱いは、案外、冷淡なような気がする。Twitterはシリア電子軍の攻撃を受けた。

 http://japan.cnet.com/news/service/35036472/

 上記によれば「唯一影響を受けたのはユーザーの画像表示機能だ」というが、投稿は長い時間、パソコンからはできなかったし、「ユーザーの画像表示機能」が使えなかったことで、悲惨な見た目になってしまったWebサイトは少なくなかった。

 シリア政府軍が「悪」で、民主化勢力が「善」なのかどうか、現時点でははっきりしない。ただし、facebooktwitterアメリカ合衆国の会社で、googleも、ということを、自他ともに認める<反米>の私は、すっかり忘れていたのである。反米の人が、シリア電子軍に限らず、facebooktwittergoogleを攻撃して、ちっとも不思議はない。

 私は以前、SNSに冷淡だった。facebookを使い始めたのは、あくまでも、当時の仕事の都合だった。twitterは「311」の際、被災の際のインフラとしてそれなりに役立ったので、かなり遅れてデビューをした。でも、Twitterがシリア電子軍の攻撃を受けて、ようやく気づいた。SNSはたぶん、その多くが、インフラストラクチャー(infrastructure)ではない。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC

 もちろん、私は、facebooktwittergoogleも使って仕事をしている。ボランティア活動もする。友人と再会したりもする。ただし、それらサービスを提供する会社は、あくまでもアメリカ合衆国営利企業で、全世界には当面、私のような反米人はつきることなく、なかにはシリア電子軍のように、facebookgoogleを攻撃する者も現れるだろう。

 SNSに支えられている、私の仕事やボランティア活動、交友などって、じつに危うい基盤しかないのだな、と気づいた。対策は、まだ無い。

英雄、不要な時代の傑作『梅ちゃん先生』

文学や音楽は、時に、現実社会の変化を先取りする。 英雄交響曲は【フランス革命後の世界情勢の中、ベートーヴェンナポレオン・ボナパルトへの共感から、ナポレオンを讃える曲として作曲された。しかし、完成後まもなくナポレオンが皇帝に即位し、その知らせに激怒したベートーヴェンは】(ウィキペディア) ナポレオンへの献辞の書かれた表紙を書き直した(といわれる)時から、音楽や文学では、英雄は要らない、という時代が始まった。


ところが現実の世界では、なかなか、英雄は不用にならなかった。しかし、ジョージ・オーウェルが『動物農場』(Animal Farm)を書き、全体主義スターリン主義を批判、毛沢東中華人民共和国文化大革命などの蛮行を繰り返すうち、私達は、英雄は益よりも害が大きい、と気づくようになった。

現実社会では、英雄がなかなか不用にならなかったから、それを反映して、山崎豊子の小説や、連続テレビ小説からは、なかなか英雄やヒロインが居なくならなかった。連続テレビ小説の場合、私の知る限り、変化が始まるのは『ちりとてちん』(2007/2008)からである。『ちりとてちん』は、英雄やヒロインが不用になった私達のこの時代に、ヒロインらしくないヒロイン、という画期的な人物像を生み出した。

連続テレビ小説梅ちゃん先生』が傑作である理由の一つは、『ちりとてちん』が生み出した<ヒロインらしくないヒロイン>を、より進め、深化させた点にあると思う。最終回での回想に明らかなように、梅ちゃんは徹底して3枚目で、その3枚目ぶりは第一回から最終回まで変わることがない。

梅ちゃんの人物造詣は、連続テレビ小説が得意としてきた、ヒロインらしいヒロインではなく、むしろ四コマ漫画テレビアニメーションの『サザエさん』に近い。しかし、『梅ちゃん先生』は連続テレビ小説なので、『サザエさん』と同様にはつくれない。

そこで作者らは、ドジでそそっかしく、徹底的に3枚目な梅ちゃんが、周りの助けを借りながら、自らやコミュニティの困難を乗り切る、という画期的な手法を編み出した。

私達の現実社会も、フランクリン・ルーズベルトキング牧師を失って以後、英雄は不用になった。私達は残念ながら、英雄は益より害の方が大きいと知ってしまった。『梅ちゃん先生』は、私達のこの、英雄不用の時代に、たいへんふさわしい連続テレビ小説の傑作だと思う。

どんどん増えてくデモ人数 ヘビ-ロ-テ-ション

原曲 http://www.youtube.com/watch?v=lkHlnWFnA0c


No〜Nukus〜 (No〜Nukus〜)
No〜Nukus〜 (No〜Nukus〜)
No〜Nukus〜 (No〜Nukus〜)
再稼動 い〜や〜だぁ
どんどん増えてくデモ人数 ヘビィ〜 ロ〜テ〜ション


ポップコーンが はじけるように
セシウムが 日本を めぐる
事故はいまだ おさまらないので
居ても立っても いられない
こんな気持ちになれるって 僕ら不幸だよね


No〜Nukus〜 (No〜Nukus〜)
No〜Nukus〜 (No〜Nukus〜)
No〜Nukus〜 君はぁ〜 い〜や〜だぁ
毎週 増えてく デモ人数
ま〜くす は〜い て〜んしょ〜ん


No〜Nukus〜 (No〜Nukus〜)
No〜Nukus〜 (No〜Nukus〜)
No〜Nukus〜 再稼動 い〜や〜だぁ
どんどん むかつく この気持ち
ヘビィ〜 ロ〜テーション

黛敏郎の『題名のない音楽会』

 一人の音楽愛聴者として、ロジャー・ノリントン黛敏郎坂本龍一のお三方には、感謝の念に尽きない。(僕は大人になってから、ジャーナリズム論や原子力を学んだので、「観るスポーツ」や日本テレビ正力松太郎さんには、いろいろ言いたいことがあるけどサ)

 ロジャー・ノリントンが、NHK交響楽団に客演した2006年と2011年は<聴き損ねた>のだが、4月26日はベートーヴェン の「コリオラン」序曲、ピアノ協奏曲第4番(ピアノ独奏:河村尚子)、そして、ブラームス交響曲第2番をライブで聴くことができた。

 ノリントンのライブに感動したついで(?)に、僕はどうしてノリントンが好きなのか、ロッド・スチュアートが好きなのか、現代音楽やジャズ、民族音楽も楽しいのか、「ビートルズが偉大」と思うのか、よーく考えてみた。もちろん、「音楽好き」ということはあるのだが、黛敏郎と(私の)父の影響が大きい。

 私の父は昭和7(1932)年の生まれで、<梅ちゃん先生>より「ちと」若い。とある国立大で電子工学を学んだのだが、時代が時代なので55歳くらいまで造船会社で艤装(ぎそう)の仕事をやっていた。(その後、70歳くらいまで電気工事士の仕事に転じて、各地の公共施設の照明や音響設備の、設置やメンテナンスの仕事をして、今は引退して存命である)

 で、私が中高生の頃、父は自衛艦の仕事をしていたのだが、小学生の頃はタンカーの艤装(ぎそう)をやっていた。その関係で私は中高生の頃、当時は「ガラガラ」だった『題名のない音楽会』の公開収録に、父と足しげく通ったのだった。あの頃の『題名のない音楽会』は、今の坂本龍一のETVより偉大なのかもしれない。

 当時の『題名のない音楽会』の公開収録では、日本国憲法をめぐって井上ひさし黛敏郎が対立したり(すごく面白かった「ライヴ」なのだが「お蔵入り」、放送されなかった‥‥)、黛がジョン・レノンを追悼したり(かつマッカートニーの偉大さを讃えた)、黛が「ジャズを楽しい」と語ったり(黛の演奏も良かった)、小泉文夫民族音楽の魅力を語ったり(演奏も良かった)、黛が声明(しょうみょう)の話をしたり、ジョン・ケージの話もあったし、ムジカ・アンティクワ・ケルンが登場したりした。

 だから改めて深く感謝するけれど、私がロジャー・ノリントンを愛聴「できる」のは、わが父と黛敏郎のお陰なのだ。『題名のない音楽会』に、ムジカ・アンティクワ・ケルンが登場しなければ、私はノリントンのファンには「なれなかった」のかもしれない。

ベートーヴェン:交響曲全集

ベートーヴェン:交響曲全集